生命保険先覚者の矢野恒太について

矢野恒太(やの・つねた)は、1865年に、矢野三益の長男であり、竹原というところで誕生しました。竹原という場所は、吉井川西岸の岡山市東部というところにあります。父の三益は、教育熱心で息子との成長の記録を残していて、代々、家は医者の家系でもありました。父の得意分野は産科で、地域から尊敬を集めていたような医者でした。それから、矢野は、家業を継いでいくために、本学の前身でもある岡山医学教場へと明治11年(1878年)に入学しました。
岡山藩では明治3年(1870年)の4月に、病院と医学館を上道群門田村を開設しました。明治4年7月に、小病院を市内中之町に設けて医学館を医学所として改称し、1872年7月に病院を合併して、医学教場というのが中之町に移りました。1879年に、弓之町に病院は移り、岡山県の病院と名称が変わっていき、病院は、矢野が入学をしてきたときには、建設中であって、国清寺で皆が勉強していました。明治13年(1880年)の3月になると、両親や学校などには何も云わずに学校を退学してしまい、上京していって東京のドイツ学校に入って、東大の医学部をめざし、同年の11月に、東大予備門に入学しました。しかし、東大予備門に入ってみても学資が続かなかったため、進級することができずに、1882年の6月に、中途退学をして帰郷しました。次の年の1月に、岡山県の医学校に再入学をしました。

在学中の(1887年)明治20年に、中学校令が公布されました。全国を五区に分け、第三区に岡山は属していて、京都に高等中学校が置かれました。高等中学校の医学部の設置ということについては、京都、大阪、岡山の3つの医学校の間で、激しく誘致合戦が行われて、学生の運動もまた、激烈で矢野は、急先鋒のための一人であったのです。明治21年(1888年)の4月になると、岡山県に存在していた医学校の廃止において、国立である第3高等中学校の学部が創設されて、これ以降の就学年限は4年となりました。